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歌壇への登竜門、短歌研究新人賞を在学中に受賞

馬場 めぐみ言語学主専攻・日本語学コース


馬場めぐみさんの概念マップ

新人歌人の登竜門とされる短歌研究新人賞※1 を受賞されましたが、どのような特徴を持った賞なのでしょうか?

第 54 回短歌研究新人賞(2011 年)
受賞作「見つけだしたい」

未発表の短歌を30首応募するのが条件です。ジャンルや内容は問われませんが、私は口語新仮名で詠むことにこだわっているので、現代短歌寄りに見られることもあると思います。この賞は、選者が予選の段階から携わっていることが特徴で、選考結果が掲載された『短歌研究』によれば、〔ニューウェーブ短歌で知られる〕穂村弘さんが私を担当されたそうです。

馬場さんが短歌を始めたきっかけは?

全くの偶然でした。大学で周りに短歌を詠んでいる友人が多くなった時期があって、それに影響されました。「詩のボクシング」※2 というイベントで短歌を詠む方と多く知り合ったり、簡単と感嘆をかけた「かんたん短歌」を提唱している枡野浩一さんのブログで、他の方と交流したのがきっかけです。ですから、私にとっては、口語新仮名の短歌を「読む」のが自然だったのです。また、短歌の力は朗読されるだけではあまり発揮されないのではないかとも考えていて、視覚的に見た漢字と平仮名のバランスがすごく大事だと思います。これは日本語でないとできない表現です。

馬場さんにとって短歌を詠むこととは?

私は絵を描けないし、運動もできないし、観察眼があるわけでもなく、感受性が強いわけでもないんです。でも、世界にいるというか、この空間にいるからには「何か」を感じるわけです。でもそれが何なのかは、はっきり見えないからわからない。私にとって、短歌を詠むとは、そのぼやけたものを一生懸命スケッチしているような感覚です。ぼんやりとしたままだったら無視できるのですが、短歌という小さなメモ帳みたいなものにスケッチをしていくことで何か見えてきます。こうしてだんだんと視界がクリアになっていく感覚があるのですが、すぐ途切れてしまいます。だからもう1回クリアな視線でものを見たいと思うのです。
私にとって大体のものはぼやけて見えていて、人の気持ちとか、季節の流れとかもそんなに感じられません。短歌を詠む方は季節に敏感な方が多いのですが、私の短歌には自然が全く書かれてなくて、心に見えた風景が登場します。顕微鏡でもそうですけど、クリアに見ようと思えば思うほど、見える範囲は小さくなると思うんですよ。私が短歌を詠むときはそんな感じです。狭く深く思い詰めていくことで、1つ1つの点が大きなものに繋がっていくという確信があるのです。
私には自分がどこか隔絶された場所にいるような感覚があります。短歌に限らず、どんなジャンルでも切なくて過剰なものが好きなんです。そこまで思い詰めなくていいよ、って言ってあげたくなる感じの人だとか、適度を知らない感じの人が、そういう表現者が好きで。

それが、馬場さんがなりたいと思っている表現者の姿なのでしょうか。

私は、表現者としてはそうなりたいです。しかしその一方で、生活している自分としては平らかに生きていきたいというのもあります。短歌を詠むときの辛さというのは、ぼんやりと見えるものを何とか形にしようとしていくときに、短歌を作る自分と、平かな自分あるいは社会的な自己とが両立できないところにあります。両立させている歌人はいっぱいいると思うのですが。
学生時代というのは、表現する自分と生活する自分をかなり融合させやすい環境なのだと思います。例えば、言語学にしても、人文学類の学びは実学でないと言われがちですが、それに強い関心を注がれる先生や学生がいて、その関係の中で、短歌に出会ったり、時には過度にそれにのめりこんで生きていけるのは大学生の特権という気がします。ただ、生きていくために稼ぐ仕事にも楽しみがあると思っています。

表現者という言い方が出てきましたが、自身をどのように捉えていますか?

私は表現者ではないです。「人間の女になりたい生きもの」ですね。私は少女性と女性性が違うものだと思っていて、少女を引きずる自分をどこかで殺さなければならないという戦いをもう8年くらい続けています。

その過程のなかで、表現する自分と生活する自分が葛藤している、と。

その通りです。でも、全部が表裏一体です。言葉で何か人に伝えたいと思う自分と、言葉の不自由さに辟易する自分。言葉ではなく肉体で表現できる人が本当にうらやましい。バレエなどすごく憧れるけど、でも自分はそうではないという葛藤。少女でありたいという気持ちと、でもちゃんと女性になっていきたいという気持ち。自分が発するもので人を引きつけたい欲望と、地に足を付けて生きていきたいという願望。こんなものが全部表裏一体で重なっていて、それが時々でどちらの針に振れるかという日々です。その揺らぎの中から歌が立ち上がってきます。

その揺らぎから詠む歌は、自分が能動的に表現しようとして詠むものなのでしょうか。あるいは、わき上がってきて表現せざるをえないものでしょうか?

それは揺らぎの時々によります。今は短歌を詠む依頼を頂くときもあって、必ず引き受けています。それは自分が歌を詠めるからではなく、歌を詠む自分を求められているのが嬉しいからです。求められているのが嬉しいから、どんなに作れないときでも、期待に見合うものを自分の中から絞り出したいと思います。その一方、誰に求められていなくても歌ができるときもあります。

短歌を詠むクリエイティビティとでも言えるものは、どのように磨かれるのでしょうか?

見極めることです。いろいろな言葉が自分の中から出てきたとしても、それが自分にとって出す価値があるものかどうか、出す必然があるのかどうか、それを見極めるということですね。心から浮かび上がるものを全て拾い上げるのではなくて、その中に「これじゃない」と思うものがありはしないか、また出てきた言葉が今の自分にとって本当にどういう意味なのか、よく見極めることです。

それは、どのような立ち位置の目から見極められるのでしょうか?

私にとっては、第三者的な目から見極めているのではありません。しかし、最近は自分の目との間で揺らいでいます。例えば、女性性を前面に出す歌というのは、私にとっていまだかつてないものなんです。自分が少女ではなく、一人の異性と向き合ったり母になっていく性である、成熟する女性になるべき性であると認めることは、私にとってすごく新しく画期的なことです。けれども、女性性を前面に出して歌を詠んでいる人はいっぱいいます。だから私が女性性を前面に出した歌を詠むと、持ち味がなくなったみたいなことを言われたりする。私にとっては必然で画期的な変化でも、それは歌壇にとっては何ら新しいことでもなかったりするのです。
このように、以前は見極めるにしても自分の目だけでよかったのですが、最近は自分の目と客観的な目の両方でふるいにかけています。このあたり、短歌研究新人賞を頂いた責任を感じています。

馬場さんにとって言葉とは何でしょうか?

言葉とは、疎ましい道具です。疎ましいけど自分にとっての唯一の武器です。言葉に対して向き合うときが一番感覚が鋭くなります。言葉と言葉の間に「液体」があると思っているのですが、その液体をすくい上げるためには、自分のなかで一番感覚の鋭い部分で言葉を組み合わせるしかないと感じています。なぜ言葉で表現するのかと言われたら、言葉でしか表現できないから、かな。

短歌を詠む上で必要なこと、あるいは避けるべきこととは何でしょう?

変わっている、人と違うことにアイデンティティを求めない必要があります。これは揺らぐことを恐れないということにも関係しています。ものごとを表現しなければならないような葛藤がないときに、葛藤を持たない人が表現に携わること自体が、本当は気持ち悪いというか趣味のよいことではないと思っています。自分は本当はそうではないのに何か表現したいと思ってしまって、その表現したものを好きだと言ってくれる人がいる。でもやっぱり表現する自分というのを心の底から好きになれはしないし、でも表現する存在として生まれたかった自分もいて。こうして、さっきの葛藤の問題に帰ってきます。

葛藤という話がありましたが、挫折という経験も大きかったと聞きました。

短歌研究新人賞の受賞スピーチにて

挫折について話すと長いのですけど、大きな挫折は、当初志望していた大学に入れなかったことです。小さい頃から、私は母の母校でもあるその大学に入るものだと信じ、母が通ってきた道をちゃんと歩いて行くことが娘としての責務とも思っていました。けれども、わりと微妙な差でそこにたどり着けませんでした。
 あと、私は大学を4年で卒業していないんです。卒論を書けなくて、ゼミに出ることも主査の先生に連絡することもできずに引きこもっていた時期がありました。そういう挫折していた時期は、ダメな自分をさらけ出すのでなく、隠す方向に流れてしまったのです。しかし、そんなことが全部この瞬間のためにあったんだ、と思えるような瞬間が自分に来たらいいなとも思っていました。賞を頂いた作品はその頃にたまっていったものを形にしているので、もしかしたら、受賞というのは私にとって報われた瞬間だったのかもしれないません。

専攻した日本語学と短歌との関わりは?

私は言葉から逃げられない人のようなのです。入学時は宗教学を学びたいと思っていたのですが、国語の教員免許を取りたいというのもあって日本語学にシフトしていきました。しかし、日本語学を専攻したことを後悔した時期もあり、4年で卒業できなかったのはすごい挫折だったんです。それでも、卒論の主査の先生、副査の先生との関わりからは、言葉について自分では絶対見えなかった角度で見ている人がいるというのを知ることができました。これは、私にとって、日本語学を専攻して一番大きかったことです。ただ、短歌をやるから日本語学というわけではありませんでした。

馬場さんが人文学類で学んだことの意義について教えてください。

自分の関心のあることは、どこにいても多分自分で突き詰めていけるのだと思います。学術的な意味ではそれだといけないのかもしれませんが、創作という意味ではどこにいても追究できるんですよ。でも、人文学類では、1つのジャンルとしての学問に誠実に身を置いている人の姿にふれあえたのが、私にとってよかったと思います。自分がジャンルにあまりこだわりがない人だからこそ、自分とは違うものを人文学類では多く見ることができました。同じ言葉でもアプローチの仕方が全然違うとか、好奇心の抱き方が全然違うとか、自分と異なる人がこんなにいるとか、その全部がきっと素晴らしいんだなと感じていました。

創作に関心を持つ後輩へのメッセージを。

高校生のうちに分かっておいてほしいことは、人の創作物を初めから否定する目で見ないことです。否定するのはいつでもできるから、まずはどこまで自分が受容できるのか考えてみる。そしてどうしても受容できなかったら、どうして受容できなかったのかを考えてみる。一つ一つ、自分に見えないものを、自分に見えないから考えるしかないものを考えていくことが、つまり自分に見えるものをはっきりさせていく過程が大切だと思います。もしかしたら大学時代にすごい辛いことがあるかもしれないけど、辛いことは多分辛いだけでは終わらないから、耐えるべき時は耐えて、逃げるべき時は逃げてください。

※1…短歌研究社による短歌の新人賞。角川学芸出版の「角川短歌賞」も新人歌人の登竜門として並び称されるが、角川短歌賞は50首の応募が条件で、選者に先立って出版社の側で予備選考が行われる。

※2…ボクシングになぞらえ、ステージ上で2人が自分の作品を朗読し、ジャッジが勝敗を判定するイベント。